久保家は二本松藩士の家柄で、久保三右衛門常則(寛保四年没)の長子・与十郎常定(二本松藩五代目藩主・丹羽高寛の妻お千代の方の弟)が猪之吉の祖である。猪之吉の祖父・常美は軍学に長じて藩の軍事訓練の青田原調練の際には軍師添役を務め、戊辰戦争の時は軍事調役であった。父・常保も戦ったが、その弟達も兄の出陣を見て鉄次郎(十五歳)豊三郎(十二歳)も急遽少年隊に加わったが、二人とも戦死し、「二本松少年隊の話(紺野庫治著)」に久保兄弟の悲話として取り上げられている。かつ、世界的な医学者となった猪之吉は二本松藩士の息子として、二本松の代表的な偉人の一人として紹介されている。
維新後、久保一家は荒井村字下沢二十八番地(現在は道路拡張でその番地は無い)に移り住み、常保は二本松藩医の小此木玄智の娘・こうと結婚し、明治七年(一八七四)十二月二十六日に猪之吉が誕生したが、生後間もなく家風に合わず離縁。その後、継母ミツに育てられた。猪之吉は後年「我輩は母乳を一週間も飲まないから体格が貧弱なのだ」と妻に語ったという。
荒井尋常高等小学校の沿革誌によれば祖父・常美は明治七年に小学校の教師となり、父・常保も明治九年に同小学校の教師として採用されて生活していた時期もある。
近代文学研究業書(昭和女子大学編)によれば、猪之吉は明治十四年四月に須賀川町立尋常小学校入学、明治二十年小学校卒業と共に、中学校が福島県下に一校しかなかったために信夫郡佐倉村へ転居して福島県尋常中学校に入学。中学までは二里半もあり、冬でも「午前三時過ぎには起きて、自分で飯を炊き、食事を済ませ、弁当も作り、半渇きの足袋と草履で夜の明けぬ五時頃登校する毎日が続いた」と語っている。
在学中、中学校が安積郡桑野村へ移転したため、二年の秋から寄宿舎生活をした。安積中学の在籍簿の記載は、明治二十一年四月七日入学、二十四年九月一日第三級修業、本籍荒井村字下沢二十八番地、士族常保長男、久保猪之吉と記してあるが、一方、家族は明治二十五年十二月に本宮町字鍛冶免八番地に移り住み、ここが猪之吉の本籍となった。研究業書では明治二十四年七月に第一高等学校に入学、東京本郷の東片町正念寺に下宿したことになっている。猪之吉は小柄な体で虚弱であったにもかかわらず、「寒稽古皆勤ヲ証ス」という賞状まで受け、勉強にも励み、意思の強い努力家であったことが判る。たまたま下宿先の近くに、第一高等学校で教師をしていた落合直文が住んでいたので、苦学生であった猪之吉は毎月学資の補助を受けて励まされた。「もし先生の補助がなかったら今日の私は無かった」と文章にも書いている。
明治二十九年七月七日、第一高等学校を卒業し、同年東京帝国大学医科大学に入学。耳鼻咽喉科を専攻した。明治三十三年十二月二十六日大学を卒業して、翌年一月二十八日、東京大学耳鼻咽喉科教室の岡田和一郎教授の下で副手となり、七月には助手に任命された。この頃住まいを本郷区丸山新町へ移転して、中学生の弟・護躬を呼び勉強させた。
また継母ミツが上京して腸チフスに罹り東京大学附属病院に入院したが、明治三十五年七月二十四日死亡し、父の住む本宮町の誓伝寺に埋葬した。継母の戒名は、寺の記録によると東京駒込町・称念寺(実際は正念寺)から授与された戒名だそうで、貞操院殿光誉妙薫大姉という戒名が記載してあった。失礼ながら明治時代において、一介の代書屋を営む久保家ではもらえない法名で、なおかつ、誓伝寺では現在でも院殿号は久保家一軒のみである。祖父の墓は荒井村の神宮寺にあり戒名は、常光院演誉至誠居士である。想像するに、猪之吉が学生時代住み込んでいた正念寺の住職が、久保家の先祖と、若干二十八歳の猪之吉との人間関係で、特別に授与したのではあるまいか。昔から桜観音として有名だった正念寺は戦火で焼け、現在は文京区向丘の浄心寺に合併され、寺名は土地の老人の記憶の片隅に微かに残っていた。因みに、父・常保は猪之吉が医学界で世界のイノ・クボと呼ばれるほど有名となっていた四十一歳の時に没し、大光院殿厳誉常保居士。父の後妻の桐子はその五年後に没し、貞順院殿光誉妙珠大姉と石碑に彫られているが、現在の日塔住職の先々代ではなく、他寺へ転勤したそれ以前の住職の時代の贈り名なので、どうのような経過で誓伝寺を菩提時にしたか、今となっては判るすべもない。三人の親に感謝を込めて建立した石碑は、木々に囲まれ、誓伝寺の墓地山頂にひっそりと立っている。
さて話を戻して、明治三十六年(一九〇三)五月、愛媛県松山市の宮本ヨリエと結婚。六月には耳鼻咽喉学研究のため満三年ドイツのフライブルクに留学を命ぜられ、ドクター・グスタフ・キリアンの下で助手となった。彼の学識と研究熱心さに脱帽したドイツ人達は、敬意を込めて「ドクトル・ヘン」(小人の賢者)と呼んだ。後年、世界的な学者として九州大学で活躍している猪之吉のもとに、ドイツから若い学者が教えを請うために逆留学している。
ところで福島県立図書館に保存してある明治三十七年九月二十八日付「福島民友新聞」トップ記事として三日連続で猪之吉の「独逸たより」が掲載されていた。それは留学先のヨーロッパから見た日露戦争の記事で、卑劣なロシアに対抗して武士道精神で戦う日本軍、敵の戦艦を沈め、海中の六百人の露兵を救出した事実などを報じた西欧の新聞報道を見て書いた意見記事であった。明治四十年一月帰国。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州大学)教授に任ぜられ、そこで医学博士の学位を取得。その年の十月に本宮小学校同窓会が「同窓会報告書・第一号」を発行したが、そこに卒業生ではない猪之吉に書簡を掲載依頼があり、次のような文が載っていた。
苦言 医学博士 久保猪之吉
本宮は我の生まれた所にあらず、されど、かの宝蔵寺はわが育ちたる舊跡なり。本宮小学校はわが学びたる所にあわず。されどわが弟妹の母校なり、されば他の人がわれを同窓一人と看做す如く、われも亦特別の感情を以て、本宮及本宮小学校に対す、今校長下河辺氏より書を寄せて、本宮小学校同窓会報告書発行の為、予にも一言求められる。われ何ぞ辞せむ。…中略…又同窓会雑誌をして、単に坊間売物たる雑誌の如くならしめれば、徒らに年少者の虚栄心を増長せしめ、修行の時期を失わしめ、大害を醸すに至るべし、此の如きに至れば、同窓会は無きに如かず、雑誌は発行せざるを優れりとす、吾郷の諸氏吾校の諸氏希くは之に留意し、予の憂をして杞人の憂たらしめよ、遙かに苦言を呈するも、固親しきが為なり。
(創刊号への投稿文が「苦言」というのも、やはり偉人だからであろう。)
九州大学の耳鼻咽喉科教授となってからの猪之吉の活躍は素晴らしく、外来診療でも実力を発揮し、国内ばかりでなく世界的な学者として名声が高まり、時の自由党総裁・板垣退助や歌人の長塚節など、わざわざ九州まで診療を受けに訪れている。大正十五年には門下生たちが資金を集め、大学構内に「久保記念館」が建設された。研究ばかりでなく文筆活動も目覚ましく、日本耳鼻咽喉科学会史によれば、昭和八年に刊行された久保猪之吉編「日本耳鼻咽喉科学全書・全十一巻」は全学究の徒をあげて学問体系の金字塔を打ち立てたといっても過言ではないと記してある。昭和三年にはコペンハーゲンで開催された第一回国際耳鼻咽喉科学会に日本代表として参加している。また絶えず、世界の学会に向けて研究成果を発表し続けた。昭和十年、九州大学を退官後、東京麻布に転居し聖路加病院顧問に就任、相変わらず、研究に没頭して耳鼻咽喉科の発展につくしていたが、昭和十四年(一九三九)十一月十二日、六十六歳の生涯を閉じた。葬儀は芝増上寺で行われ、旭日重光章を授けられ、青山霊園一種ロ二〇号二十九側に埋葬された。戒名は、慈明院殿光誉仁道文昭大居士。一周忌には門下生四三会一同で墓地内に久保博士碑を建立。二十三回忌には四三会員の豊島豊氏が胸像を建立。より江夫人も二年後に五十八歳の若さでなくなった。石碑の表面には単純に、久保猪之吉 室 ヨリエ之墓と刻んであり、誰が手向けたのか、花立てに生花が一対捧げてあった。
これまでは猪之吉の医学者としての姿を書いてきたが、猪之吉は文学面での活躍も素晴らしく、高等学校在学中に短歌に関心を持ち、落合直文に師事して彼が結成した「浅香社」に須賀川生まれの服部躬治らと加わり、「ことばの泉」の編纂助手をつとめた。
明治三十一年には服部や学生仲間の尾上柴舟、菊池駒次、斉藤雄助ら五人で「いかづち会」を結成し短歌革新の意図を明らかにした。そして「日本新聞」に短歌に対する論文を掲載した折、当時の御所歌所福羽美静氏が之に敬服され、相当の大家であろうと思って、馬車を駆って尋ねたところ、寺に下宿する一大学生であったので、唖然としたとのことであった。
俳句の道に入ったのは高浜虚子を師とする妻・より江の影響が大きく、「ホトトギス」で水原秋桜子、山口誓子らと交流。明治二十六年に本宮の俳人菊池葛美(安積の名物教師・菊池沖之介先生の父)を訪問したことのある正岡子規や夏目漱石など、子供の無い久保家に絶えず出入りし、北九州の文化サロンと言われたほど当時の文化人が訪れていた。大正二年には西日本においての本格的な文学雑誌・同人誌「エニグマ」(ギリシャ語で謎という意味)を発刊し、教授、学生、一般人の心の発露の場を作り地域文化の向上に貢献した。昭和七年の耳鼻咽喉科開設満二十五周年の折には唯一の句集「春潮集」を発行し妻に捧げている。
その他、蝶採集や高山植物の研究家としても高名であり、若い時代には写真、ベゴニア蒐集にも熱中した好奇心旺盛で稀に見る行動力のある人物であった。
ところで、十一歳年下の異母兄弟・久保護躬(十六期・明治三十七年)は兄と同じコースをたどり、安積中、一高、東大医学部耳鼻咽喉科専攻、卒業後兄の務める九州大学医学部講師、助教授となり、ドイツ等に留学。帰国後、金沢医科大学教授、千葉大学教授を勤め、退官後、名誉教授となり千葉市で没した。猪之吉が東京在住中に呼び寄せて勉強させたり、九州大学に呼んで研究させたりする経過から、家族愛を深く感じさせられる。このようにエピソードの多い世界的学者・久保猪之吉博士が、本宮出身の大先輩と思うだけでも、誇らしくなるのは私だけではあるまい。
〔資料提供者・山崎清敏氏、和泉僚子氏、山本知矢氏〕
「安積に学びし本宮の先輩たち」より 高田宗彦 著、本宮桑野会 編
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