本宮の先輩たち①〜菊池沖之介先生〜

第一回目の紹介は「菊池沖之介先生」についてです。本宮の先輩には素晴らしい俳人、教育者がいたことが伺えます。

先生は明治17年9月6日、本宮下町の旧家に生まれ、同32年福島県第一尋常中学校(後の安積中)に入学、同36年県立安積中学校(15期)を首席で卒業して早稲田大学に入学、同41年同大学英文科を卒業し、翌年母校の安積中学英語科教師となり、昭和27年まで前後2回・36年間後輩の指導にあたった。菊池先生は明治期の福島県俳壇で有名な菊池素吟の孫にあたり、父克己、兄の巳之介も俳人という家庭環境のせいもあろうが、学生時代から俳句を学んでいた。郡山町では明治32年4月に寿泉堂病院初代院長の湯浅為之進、永井英次郎らが提唱して、町内のそうそうたる顔触れが参加し、俳句同人「群峰吟社」が結成され活動を始めた時期である。「群峰」は昭和の初めに一旦途切れる。そして昭和14年に「群峰吟社」が復活するのだが、菊池先生は15年7月号に「群峰回顧」と題して次のような文を書いている。

「私が初めて群峰吟社を知ったのは、明治33年の頃、中学校に入学当初で『岩磐時報』に見はれた群峰吟社であった。当時の句は極めて幼稚で天位に推された句が

「飴売りの喇叭長閑に響きけり 一竿」

程度のもので、私も人位に抜かれて無上に喜んだことがある。自分の句稿を選者永井破笛氏宅へ持参するので『自分の手紙を自分で配達する少年』として永井一家から微笑まれて居たそうな。後に十框、雪人両先生の出馬となり華水、吟松、乱菊氏等の『熱』によって、絢爛たる天下の群峰吟社が建設されたのであった。群峰吟社年表を見て思い出したことであるが、明治26年7月、子規先生が奥州行脚の砌、無名の一俳人出会った私の亡父をも訪問せられ、

白河にて 夕顔に昔の小唄あはれなり
須賀川にて 白露の中にほっかり夜の山
本宮にて 短夜の雲収まらず安達太良峰

の名句を句箋に認めて行かれたが、後年その句稿を亡父の筐底に見出して、私から破笛先生にさし上げた。若々しい立派な筆跡であった。〜〜(後略)」

文中の雪人は安積中学の教師・西村厳太郎、華水は郡山幼稚園園長・松山政治、吟松は橋本清吉、乱菊は野川彦一郎、子規は正岡子規である。その他の同人に清泉・郡山町長の今泉久次郎、三汀・作家の久米正雄など有名人が多数参加している。菊池先生は毎月の句会には大抵参加しており、「群峰」への寄稿は俳句ばかりではなく随筆も載せ、随筆「馬追哀話」「貝の年令」などは娘さんとの何気ない会話を格調高い文章にまとめている。昭和時代の「群峰」では句会の出席者の順位から見ても指導的、中心的存在になっていたことが容易に想像できる。菊池先生は「玉令」の俳号で活躍、本宮町史や福島県俳句辞典などに句も紹介されているが、この玉令の号は祖父・素吟の戒名(玉令軒蒼竜素吟居士)にもあり、祖父の初期の俳号でもあった。俳人として名をなした祖父にあやかろうとつけたに違いない。

 さて、学校にあっては、教え子に対して我が子同様に愛情をかけ、相談相手としては勿論、身元保証人を引き受けたりして、多くの生徒から「沖ちゃん」の愛称で尊敬されていた。本宮の先輩方の中にも数多くの方々が保証人になって頂いていた。在職が長かったこともあるが、先生についてのエピソードは数多い。明治時代から野球部の部長や監督を何度か務め、或大会の決勝戦で敗れた時、「グラウンドでは涙を流すな」と命じ、宿舎に帰って共に涙したこと。昨年(※平成13年)の母校の甲子園出場は先生も天国で涙したに違いない。大正9年、弁論部の部長になった時、連日特訓し、そのかいあって生徒が県大会で優勝をした。旧本館での報告会で先生は「橋本くんの弁舌は紫の音波となって場内を圧した」と述べ、生徒を沸かせた。その後「紫の音波」は流行語となった。小柄な先生の人気は絶大で、生徒間の騒ぎやトラブルをたちどころに収めてしまう。寄宿舎の舎監も長年務めたので、先生の宿直の夜は英語の不得意な生徒は大勢英語を教えて頂いたという。
 昭和27年、67歳の先生はご家族の住む横浜にお戻りになられ、悠々自適の生活となった。このような先生に対し、母校75周年の折に、昔の教え子より先生の句集刊行の発議がなされ、期を超えて多くの卒業生が賛同、5年後の昭和41年に発刊されたのが「玉令句集」で或。俳句916句、随筆17編、175頁にも及び、序文を中山義秀(30期)、挨拶を星一郎(23期)、後記を安藤貞重(37期)とそれぞれの先輩が記している。
 その3年後の昭和44年6月14日に先生は85歳でお亡くなりになり、本宮町の石雲寺に埋葬されたが、当日は先生を慕う教え子が県内外より大勢集まり校歌「嫩草萌ゆる安積野や〜」を涙ながらに歌い別れを惜しんだという。師弟の間で、何十年経っても損なわれることのない信頼と尊敬の情。これこそが今の教育に求められているものなのではないだろうか。
 このような素晴らしい先生が本宮桑野会の大先輩であり、恩師であったのである。
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 平成13年6月の本宮桑野会総会で「菊池沖之介先生顕彰句碑建立」が正式に決定し、委員長・高松義寛(52期)、副委員長・曽我富吉(57期)、国崎正純(61期)を承認。その後、直ちに実行委員会が活動を始めた。
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 建立場所は先生の生まれた下町と荒町のあいだの川、安達太良川に架かる「本宮橋」の歩道横。俳句は「玉令句集」の巻頭句「故郷の道はこの道 風光る」である。この句の道とは旧国道で、歴史を刻んだ奥州街道であり、建立場所は西の安達太良山からの風が安達太良川の川面を渡り、心地よく頬を撫でる。

句碑の正面は沖之介先生の直筆の句


裏面に刻まれている文


↑ 安達太良川に架かる本宮橋の歩道横。ぜひ一度訪ねてみてください。

「安積に学びし本宮の先輩たち」より 高田宗彦 著、本宮桑野会 編
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